異世界転生小説『優しい世界』

 

 寒々しい洞窟を、独り彷徨い歩く者がいた。

 洞窟は壁も天井も石で出来ており、時折天井の石コロが彼の頭上に落ちてくるから、彼はその度に怯えなくてはならなかった。

 壁を突き破って突如巨人が出現したらどうしようと、彼は余計な心配も抱えた。

 右を見ても左を見ても暗闇が続く。出口はどこにあるのだろう。とにかくここから抜け出したい。後のことはそれから考えたい

 なんで最初が洞窟なのだろう。せめて草むらとか森にして欲しかった。こんな暗い所じゃ、余計に怖い。

 本当に出口はどこだろう。後どれくらい歩けば良いのだ。そして、そもそもここはどこだ。全てが不明瞭な状態で、彼は歩き続けた。ショッピングモールで母親とはぐれた子供のように半泣きになりつつ、それでも立ち止まると余計に怖いから、懸命に足を引きずっていた。

 道が二手に分かれていたら必ず右を選ぶようにしていた。一々考える心の余裕はなかった。 

 できることなら、恐怖心を紛らわすために、独り言を呟きながら歩きたかった。だが、ちょっとでも喋ると敵に見つかる可能性があるから駄目だ。

 そう、この洞窟には身の毛のよだつほど恐ろしい敵がうじゃうじゃ潜んでいるのだ。

 不意打ちの攻撃が飛んでこないだろうかと、始終彼はびくびくしていた。曲がり角を曲がったら槍が飛んでくるんじゃないか、など非常に気を配っていた。現在の彼は、音に対して異常に敏感な体と化している。

 まるで赤外線だらけの金庫に忍び込んだ泥棒のように、時折辺りを細かく見回し、物音が立ったら直ぐに端っこでしゃがみ、細心の注意を払って先へと進んでいった。

 傍から見ても、彼は些か用心深すぎるように思われるだろう。彼がこのように行動するのは、HPを減らさぬようにするためではない。

 ただ、痛みを味わいたくないからである。




 ほんの数分前のこと。

 彼は、この世界に転生した。

 魔法とか剣とかモンスターとか城とか魔王とか、そういった類の物が存在感を放っている、ファンタジーチックなこの世界に転生した。

 ある日のことだ。いつもの通り、彼は自転車で大学へと向かおうとしていた。寝坊して遅刻しそうだったので急いでペダルを漕いでいた。

 なんとか一限目の講義に間に合いそうではあった。大学前には横断歩道がある。運良く信号は青で、彼は心の中でガッツポーズを取り渡っていった。これならギリギリ間に合いそうだった。

 しかしそのとき、信号を無視していたトラックが、彼の元まで迫ってきていた。左右を全く確認していなかった彼は、クラクションが鳴ったときようやく、自分を土に帰そうとする存在に気がつく。勿論もう避けられない。

 トラックと正面から衝突すれば即死は免れない。跳ね飛ばされた彼の命は、その瞬間で絶たれた。

 バッドエンドの漫画よりも、打ち切りの漫画よりも、最悪の結末である。こんな結末は炎上して然るべきだろう。もう彼は、遊ぶこともできない。食べることもできない。何もすることができない。寝ることしかできない。

 筈だった。



 死んだ彼の魂は蘇って、別の世界に転生した。しかも、前世のときの記憶が残っているという状態で。

 転生。それは、別の生き物に生まれ変わることを示す。

 一部の宗教では転生は実在すると述べられている。だが、本当にあるかどうかは誰にも分からない。死ぬまで確かめようがないし、死んだら伝えようがないからだ。

 もし仮に転生という事象が実在するとしても、前世の記憶が残っているということはありえない。残っているなら、その人が事実を発表さえすれば、転生が実証される筈である。

 詰まるところ、彼の身には現在、常識から恐ろしく逸脱した事態が起こっているのである。



 目を覚ました彼は、自分が洞窟に倒れていることに気が付き、首を傾げた。

 眼前には、一本の剣が置いてあった。まるで、これを使って敵と戦ってくださいと言わんばかりに、目を覚ました彼の真横に置かれてあった。明らかにその剣は新品のもので、他の誰かが忘れていったものではないと思われる。

 彼は暫くの間、呆然とそこに立ち尽くしていた。

 死んだと思ったのに、自分は今生きている。この不可思議な状況について考え込んでいた。

 どうしてこんな場所にいるのだろう。誰かがここまで運んできたのだろうか。何のために? 

 彼はここで、自分の体が無傷であることに気がつく。トラックは接触する既の所で止まったのだろうか。本当は、自分は轢かれていない?

 もしかして……。

「これって、転生?」

 彼は今まで、トラックに殺されて、中世ファンタジーのような異世界に転生する小説を、何本か読んだことがあった。そう、転生前は決まってトラックに轢かれるのだ。自分もそんな物語の主人公みたいに、新しく生まれ変わったんじゃないか。

「ってことは、ここは異世界……」

 いや、そんな筈はないと、彼がはっと浮かんだ考えを懸命に否定しようとした。そんなフィクションと同じような状況に陥るなんてありえないだろう。そうだ、そうだ。彼は一瞬でも現実と空想を混在させて考えた自分を、心の中で嘲笑した。

 だが、にやけているその顔は、次の瞬間青ざめた表情へと変わっていくのであった。

 洞窟の奥から、何者かが歩いている音が聞こえてきた。ずっと下を向いていた顔を、彼は初めて上に上げる。

 洞窟の奥にいたのは、ゴブリンだった。ゲームや漫画でした見たことがなかったゴブリンが、自分から五十メートル未満離れた場所で姿を現したのである。 

 その化け物は緑一色の体で、茶色い鞄を背負っていた。不気味な角度で腰を曲げている。左手の爪は不自然に伸ばしており、明らかに獲物を引き裂くときに使うと分かる。頭にはヘルメットを被っていて、右手で棍棒のような武器を握っていた。その武器をゴブリンは一度地面に叩きつけた。洞窟内に爆音が響き渡る。

 悲鳴を上げるのを懸命に堪えていた。ちょっとの声でも漏らしたら、あのゴブリンに自分の存在がバレる。そしたら、たぶん襲ってくる。

 ゴブリンを目撃した彼は、ようやく自分の身に起こったことを認めた。

 自分は、異世界に転生してしまったのだ。ファンタジーな世界にやってきたのだ。



 ゴブリンは、奥の方へと進んでいってやがて見えなくなった。ひとまず安心ではあるが、彼の脳裏にはゴブリンの悍ましい後ろ姿が、はっきりと記憶されてしまった。彼の体は恐怖で震え、涙を流しかけてしまう。あのゴブリンの行動が意味不明だったのが、余計に恐怖心を増幅させた。

 とりあえず、眼前に落ちていた剣を拾う。手が震えて一度落としてしまったが、再度の挑戦で何とか握ることができた。

 戦うつもりなんて欠片もなかった。モンスターに気が付かれたら即効で逃げようと思っていた。

 もう逃げられないときのみ、剣を降るという選択を取ると決めた。そんな状況になったら、怖すぎて剣を落としてしまうかもしれないが、それはも うどうしようもない。そこまでいったら、後は神に祈る他ない。

 贅沢を言うと、剣よりも盾が欲しかった。もっと贅沢を言うと、洞窟から一瞬で抜け出せる道具が欲しかった。



 転生したというだけでも恐怖のどん底へと叩きこまれ、泣き叫びたい気持ちになったのに、現在自分が危険な場所にいるともなれば、彼の精神の乱れは極地に達していた。もう死にたいという気持ちすら起こった。吐き気も催したし、心臓は、フルマラソンの距離を百メートル走のつもりで全力疾走したんじゃないか、というぐらい激しく音を鳴らしていた。

 できることなら失神してしまいたかった。そして失神している間に、モンスターに攻撃されて痛みを感じずに死にたいと思った。とにかく彼は痛みに怯えていた。死よりも痛みを恐れていた。むしろ一回自分は死んだのだから、別にもう一回死んでも構わないと思っていた。

 大声で、「誰かいませんかー」と叫べば洞窟を探索している勇者や冒険家が助けにきてくれるかもしれないが、当然敵も誘き寄せることになるので、かなり一か八かな行為だ。今の彼の精神状態では、一か八かな行為なんてとてもできない。

 彼はひたすら出口を探して歩き続けるしかなかった。頼れるのは、自分の運と逃げ足のみであった。

  

 

 出口を探して数分後、とうとう彼はモンスターに出くわした。

 彼が出くわしたモンスターは水色のスライムだった。見た目は非常に弱そうで、そもそも戦闘力があるのかどうかも微妙だ。だが、彼はそれでも即効で逃げた。必死の形相で逃げた。重い剣を投げ捨てて逃げたかったが、それは思い留まった。

 残念ながら、彼が逃げた先は行き止まりだった。これ以上先へ進むことはできない。振り返るとスライムが、ねちょねちょと気持ちの悪い音を立てながらこっちへ近づいてきている。

 こうなればもう、戦うしかない。剣はおろか、包丁すら殆ど使用したことがない彼は、いよいよ覚悟を決めた。覚悟を決めざるを得なかった。

 突進、猛突進した。そして、青い物体に向かって、「死ねー!」と叫びながら剣を振りかざしたのである。

 剣は、見事に敵の体を一刀両断した。二つに分裂したスライムはそれぞれぴくぴくと動き回り、一定時間した後にどっちも動かなくなった。恐らく、もう死んでいるだろう。

 RPGで言えばここでレベルアップの音楽でも流れているのだろうか。そんなことを考えつつ、彼は先へと進んだ。剣にこびりついたスライムの欠片は気味が悪かったが、触りたくなかったので取らなかった。

 今まで彼に伸し掛かっていた恐怖は、約半分くらいの重さになった。心臓の音は急激に存在感を薄めていく。なんとか自分は、戦える。なんとか自分は、剣を振れる。それが分かっただけで、彼の元に幸せの青い鳥が現われた気分になった。

 だが、青い鳥が現われた所で、周囲では真っ赤なマグマが湧き上がっていることには変わりない。

 さっきの敵が、たまたま弱かった可能性もあるが、それでも一撃で殺すことができた。このことは彼を大きく自信付けた。レベルで言えば今のでせいぜい1ぐらいしか上がらないであろうが、彼の精神面の成長レベルは30くらいは上がった。

 とはいえやっぱり、不意打ちは怖かった。さっきの敵から一発でもいいから攻撃を受けておけば良かったと後悔した。どのくらい痛いのか分かれば、更に不安が萎んでいったことだろう。勿論一発喰らって死んでしまったらまずいが。



 再び出口を探して歩き回る。

 今度は、喜ばしい出会いが訪れた。彼は自分以外の一人の人間に、ここで初めて遭遇したのである。

「こんな所で、何をやっているんですか」

 彼の脳内では既にエンディングが流れていた。魔王を倒して姫にキスされていることに匹敵するくらい嬉しい気持ちになっていた。

 これで自分は守ってもらえる。いよいよ危険な日々(わずか数分)から逃れることができる。

 ただ問題は、この人間に戦闘力があるかどうかであろう。

 魔法使いのような格好をその人はしていた。男の人だった。

 左手には杖も持っている。この杖を振ることで魔法が使えるのだろうか。回復系の魔法しか使えないとかだったらやばいなあと思っていた。

 しかし、冷静に考えてみると、こんな場所を一人でうろついているのだから、戦う力がない訳がない。

「あの、出口まで一緒に行ってくれませんか。自分その、戦えないんです。モンスター現れたらどうしようもなくて」

 ここで断ったら私は死ぬんだよ。あなたが助けないともうダメだよ。っていうことが、伝わるように彼は涙目を作って話す。

「一緒に行くのは構いませんけど。……でもあなた本当に戦えないんですか。その剣スライムの欠片付いてますけど。倒したんじゃないんですか」

 まずい。戦えることがバレてしまう。彼は事前に欠片を取っておかなかったことを激しく後悔した。

「いや、これはちょっと敵にあたっただけで、倒せなかったんです。この後、敵はピンピンしていてすぐに襲いかかってきました。私はすぐに逃げたんです」

「え、欠片は付着してるのに倒してないんですか」

「はい」

「本当かなあ」

 魔法使いの男は、やたらと疑り深かった。いいから助けてくれや! って叫びかった。

「まあ一緒に行きましょう」

 なんとか、了承してくれた。もう自分は剣を振らなくて良い。後ろで見守っているだけでいい。彼はここで、魔法使いに守られるヒロインと化した。

 二人は縦に並んで歩いた。出口までの最短ルートを進んでいった。彼は背後からの不意打ちだけは警戒しなくてはいなかった。

「無事なのかなあ」

 歩きながら、魔法使いの男はそう呟いた。

 

 

 しばらくして本日二回目の事態に遭遇。モンスターが行方を阻んだ。さっきと同じようなスライムの敵だった。さっきより若干ではあるが体躯が細い気がした。後、目が垂れている感じだった。見た目はそこまで強くなさそうだ。

「さてと。じゃあ倒しますか」

 魔法使いは杖を軽く振った。すると、敵の体がふわっと宙に浮いた。杖を下におろすと、スライムは地面に叩きつけられた。ぺちゃ、という気持ちの悪い音が鳴った。 

 さっきよりもかなり遅くなってはいるものの、スライムはまだ動いている。致命傷は与えられてはいない筈である。

 しかし、魔法使いの男は言う。

「さて、倒したし行きましょうか」

 彼は怪訝な表情を浮かべる、魔法使いの言っていることが理解できない。

「え、でもまだ死んでないですよ」

「いや、死んでないですけど、ちゃんと倒しましたよ。もう、襲ってこれないでしょうし」

「でも、殺さないと倒したってことにはならないんじゃないですか」

 すると、

 その人はきょとんとした顔で、

「何言ってるんですか。殺さなくても、戦闘不能にすれば倒したことになるでしょ」

 衝撃で心が揺れに揺れ、後悔の津波に飲み込まれ、罪悪感の海に沈む。

「……そっち!?」

「そっちってなんですか」

「あ、いや」

「心配しなくても、もうスライムは攻撃する元気ないですよ。これ以上痛めつける必要ないですね」



 彼が転生してやってきた、この世界。 

 この世界には、モンスターが登場する。モンスターの中には、人を襲おうとする者も一部いるし、人々から嫌われている者もいる。

 だが人々は、このモンスター達を基本殺さない。モンスターと遭遇したら気絶させるかグロッキーにするかくらい痛めつけるだけに留めている。ようは、襲ってこなさせれば良い。

 それだけで、経験値はちゃんと入る。レベルもきちんと上がっていく。殺したら多めに経験値が貰えるとか、そういうのも一切ない。殺すことで得られるメリットはない。

 基本的に、この世界の人々は無意味な殺傷を嫌う。たとえ人間相手でなくとも、殺す、という行為をすることは異常なこととみなす。

 この世界には、無数の冒険者や勇者が存在する。彼らは皆、殺してはいけないことは知っている。誰に教わった訳でもなく、常識として物心がついたころから分かっている。

 そもそも、「殺す」という発想が彼らにはない。

 だがしかし。異世界から転生してきた彼は、とんだ思い違いをしていた。

 この世界は、酷く殺伐としていると思っていた。洞窟内は不気味だし、モンスターは恐ろしい。脳裏に焼き付いたゴブリンは未だに怖く感じる。

 そんな殺伐とした世界なら、戦闘は殺し合って当然だと考えていた。

 ところが、違った。

 この世界は、違うのだ。殺さないで、気絶ぐらいで「敵を倒した」と認定されるタイプの世界だった。



 魔法使いはギロッと、スライムの付いた剣を睨みつけた。

 彼は冷や汗を大量にかいていた。目線を剣の方へ向けないようにしていた。

 たぶん、バレてる。

 いや分からない。バレている可能性は高い。

 彼は、この男を脅してしまおうかとも考えた。なんとかして、口止めさせなければ。けれども、こんな魔法使い相手に一般人の自分が力で勝てる訳がない。

 知らなかったんだ、って泣きつこうか。自分はこの世界に転生してきた人だから、そんな常識は身についてなかったって言ってしまおうか。信じて貰えるのかな。

 ものの数秒ではあるが、彼は激しく葛藤していた。正直に言ってしまった方が良いのか、迷っていた。バレていることが確定しているのなら、白状した方がよいけれども……。

 何も言わずに魔法使いは、ただずっと剣を睨んでいる。「殺したでしょ」って一層のことはっきり言って欲しかった。バレているかどうか、とりあえず明確にして頂きたい。

 結局彼は告白せずに、そのまま隠し通す道を選んだ。彼には、罪人になる勇気がなかった。いかんせん、どのくらいの罪に問われるのかが分からない。もしかしたら死刑になるかもしれない。

 うねうね動いているスライムを避けて、二人は出口を目指した。ここからは一切二人の会話はなかった。歩いている間彼は幾度も正直に話そうか悩んだ。このまま胸にわだかまりを残したままで良いのかと自分を鼓舞した。が、なんだか魔法使いはさっきよりも歩くスピートが速くなっているようで余計に話辛くなってしまった。

 殺したら、何か罪に問われるのだろうか。しかし、たかがスライムだ。人型のモンスターならともかく、あの生物を殺したくらいならきっと大丈夫。そう自分に言い聞かせていた。

 

 

「それでは、自分はこれで」

「ありがとうございました。本当に助かりました」

「いえいえこれぐらいのこと」

 洞窟から出て、魔法使いと別れる。別れる際に、剣をもう一度睨みつける、なんてことはしなくて、彼は心底ほっとした。

 彼はしばらく、洞窟の前で立ちすくんでいた。夕焼け空の向こうには、家々が立ち並ぶ田舎っぽい町が見えた。遠くには城が聳え立っている。

 彼は剣に付着したスライムを拭き取り始める。触った瞬間スライムの欠片がぴくっと動いた、ような気がしたが気のせいだった。彼は驚愕し尻もちをついた。なんとか震える手で剥がし終える。

 証拠を隠滅させた彼は、向こうに見える町へ向かうことにした。町には宿もたぶんあるだろうし、住民に色々聞くこともできるだろう。

 転生してしまったものは仕方がないと、彼はもう受け入れた。死んであの世に行くよりは遥かにマシだろうし、ある意味、自分は幸運なのだ、と思い始めてきた。こっちは危険な世界の可能性もあるが、モンスターを殺さないのがデフォルトであるならば、恐らくそこまでではないと考えていた。先程のような洞窟にさえ侵入しなければ大丈夫だろう。

 願わくば、

 先程スライムを殺してしまったことは誰にもばれないまま、この世界でひっそりと、痛くないように暮らしたい。

 

 

 十分後。

 彼は町に辿り着いた。

 そこで驚くべき光景を、彼は目の当たりにした。それは、始めてゴブリンを見た時に、勝るとも劣らない衝撃的なものだった。

「うそ……だろ……」

 彼はこの光景を生涯、忘れることはないだろう。しかも衝撃的な光景は、町の至る所にあった。

 それは、老若男女様々な人達と、スライムやゴブリンと言ったモンスターが、眩しい夕焼け空を背景に、共存して生活している光景だった。

 ドラゴンに乗って、宅配の仕事をしている人がいた。空中を飛び回って、いち早く荷物を届ける。荷物を届けて貰った人は、にっこりと笑って、「ありがとうね」って言いながらドラゴンの頭を撫でていた。ドラゴンは一切、人々に野蛮な振る舞いをしていなかった。

 スライムが子供達と楽しそうに公園で遊んでいた。とある子は、膝にスライムを乗せてブランコを漕いでいた。

 また、公園の真ん中ではスライムを戦わせている子達がいた。彼はその様子を見て少しだけほっとした気持ちになった。モンスターを戦わせ傷つけ合わせる文化があるなら、モンスターを殺した自分の行為も幾分か罪が軽くなるはずだ、と考えた。

 だがそのバトルは、明らかに相手を不必要なまでに気付けないように細心の注意を払っていた。更にバトルを終えた後、子供達はスライムの擦り傷をしっかりとケアしていた。

 これでは、罪は軽くならない。

「お兄ちゃん、どうしてそこで泣いているの?」

 子供に話かけられて、彼は慌てて涙を拭いた。泣いた理由は当然言わずに、公園から走って逃げた。「なんでもないよ」って子供に言っても良かったが、余計に涙が出て来る恐れがあった。

 彼は泣きながら、町からも抜け出した

 自分が、とんでもないことをやらかしてしまったことを改めて実感した。心の中でずっと、わざとじゃない、わざとじゃない、と呟き続けながら頭を抱える。殺した事について誰かから聞かれたとき、知らなかったと言って果たして済まされるのだろうか。恐らく、済まされない。

 無知は罪なんだろうか。例え転生してきた人間でも、知らないことは罪に値するのか。この世界について予習してから転生してこいということか。それは無理だろう。そもそもこの世界に来たくてきた訳じゃないし。というか、あのとき横断歩道でトラックをちゃんと見ていなかった自分が悪いのか。そうだ、あれがそもそも悪い行いだったんだ。だから自分は、このような仕打ちを受けているのだ。



 振り返って彼は、もう二度と行きたくない筈だった場所へと向かい始めた。自分が切ったスライムはどうなっているのか、確かめにいった。もしかしたら死んでないかもしれない。何しろ、相手はモンスターだし、常識外れた生命力を持っていてもおかしくない。そうであれと願った。スライムなら、真っ二つに切れても、それぞれが独立して生きていたりもしそうだ。

 そもそも、だ。剣というメジャーな武器で、戦闘ド素人の自分が、一回斬りかかっただけなのだ。それで死ぬなんておかしいとも思った。

 彼は猛ダッシュで例の場所に行く。かろうじてどこの地点か覚えていた。ちょっと迷ったが、なんとか辿り着いた。モンスターには運良く遭遇しないで済んだ。

 しかし、そこには何もなかった。

 もしかして、もう誰か見つけて、死体を回収してしまったのだろうか。それともスライムは生きていて、自分で移動したのか。無論彼は、後者であることを祈った。

 

 

……。

「ぺちょ、ぺちょ」

 背後から、不気味な音が聞こえてきた。

 嫌な予感を胸に抱きつつ振り返る。そこには、赤い色のスライムがいた。

 スライムには二つの目があるが、その二つの目はつりあがっていて、明らかに彼に敵意を向けていた。

 このスライムは、彼が殺したスライムの家族であろうか。否、色が違うから友達か。それは分からない。だがはっきりと、分かっていることはあった。

 スライムは、自分を殺そうとしている。

 次の瞬間、スライムは彼の方へと飛びかかっていった。彼は、自分の身を守るために、このスライムを倒そうと決めた。だが剣は使わなかった。彼は素手で殴った。万が一殺めてしまうことを恐れた。

 彼の拳が直撃したスライムは、無残にも地面に叩きつけられる。彼はほっと胸を撫で下ろす。

 だが、ここで悲劇が再発した。

 スライムは地面に叩きつけられ、そして、バラバラに弾けとんだのだ。

「なんで、どうして……」

 彼は今日二回もスライムを殺してしまった。彼が元いた世界では、人間を二回殺したら死刑になる。この世界でモンスターを二回殺した場合は、どうなるであろうか。

 彼はとうとうパニックになった。頭を抱え、叫び始める。誰かが洞窟内部にいたらバレてしまう恐れがある、などと考える余裕もなく。   

 しばらくして、彼に追い打ちをかける事案が発生する。

 死亡したスライムの回りに、他のスライムが二匹集まってきたのだ。彼らはまだちっちゃく、まるで子供のようだった。色はどちらも赤である。

「同じ色……」

 思わず、彼は泣きながら呟いてしまった。

 二匹のスライムは死んだスライムの欠片を、懸命に集めていた。手足のない彼らは、体をよちよちと動かして、時間をかけて一箇所に纏めていた。纏めた後は、それを祈るように見つめていた。そして、それは二度と復活しないと分かると、彼らは涙を零して号泣していた。



「違う……違うんだ。わざとじゃないんだ」

 スライムに言い訳しても仕方がないのに、彼は自然と声が出てしまった。

 彼は泣いた。思いっきり泣いた。スライムに負けないくらい泣かないと駄目だと思った。そうしないと自分が全方位から一斉に叩かれるような気がした。

 なんで、なんで、なんで。

 おかしい、なんで、こんなんで殺してしまうの。意味が分からない。

――異世界転生。

 ふと、その言葉が脳裏を過ぎった。

 異世界に転生する物語を、彼は今まで何本か読んだことがある。その多くは、転生した人がチート能力を持つことが多かった。人並み外れて強い能力を持った主人公は、それを使って無双していき、やがて世界を救う。そんな展開であることが多かった。

「もしかして、自分も……」

 彼はようやく、自分の持つ力に気がついた。

 彼はいわゆる、チート能力を持っていた。異常なまでに「攻撃ステータス」が高いという、とてもチートな能力が備わっていた。剣だろうと素手だろうと、攻撃ステータスが高ければ十二分な威力を発揮する。

 弱いモンスターであればこの力で、即効で殺してしまうことができる。この、モンスターを殺してはいけない世界では、とても不都合なチート能力だった。

 チート。その本来の意味は、コンピュータゲームにおいて本来とは異なる動作をさせる行為。まさしく彼は、このゲーム内で、正常な主人公と違って、モンスターを殺すという異常な行為をしている。

 彼は、本日ほとんど常に震えていた、自分の弱々しそうな手を見つめる。

 この手には、恐るべき力が秘められている。

 

 異世界転生したチート能力者。

 

 彼はもはや、この世界におけるバグであった。

 

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どうも鬼束ちひろです。

なんとなくですが、自作の小説を投稿してみます。